心の共有面積
先日久しぶりに、自分が生まれてから中学を卒業するまで住んでいた場所を訪れた。
懐かしいその場所は、六畳と四畳半の二間に小さな台所の付いた木造のアパートだった。
共有面積100%の住環境。
家族三人この狭い居住空間で食事をし、布団を敷いて寝た。
もちろん子供部屋などなく、六畳間の片隅に小さな机が置いてあって、そこで宿題などをした。
高校に入って一戸建ての家に引っ越した。
一戸建ては両親(特に母)の念願で、いつか家を買う、というのが結婚する時の約束だったようである。
食事をする場所と寝る場所が別々になって、自分の部屋もできた。
しかしその頃から、家族の間に少しずつ距離が生まれ始めた。
父と母は元々仲のよい方ではなかったし、私も父とは馬が合わず、よく衝突した。
狭いアパートに住んでいた頃は嫌でも顔を突き合わせ口を利かなければならず、そうしていれば自然と仲直りもできた。
それが引っ越してから、嫌なら顔を合わせなくても済む、という環境が手に入って、食事も別々の時間にとるようになり、家族三人が揃うこともなく、会話を交わすこともほとんどなくなった。
私も難しい年頃だったし、どこの家にもあることといえばあることだ。
今思えば、狭い所で家族三人が嫌でも顔を突き合わせるっていう環境も悪くなかったかなあ、と思う。
たしかに不便だったしプライバシーもなかったけど、その分家族の関係は緊密だった。
他人との関係も似たようなものがある。同じ学校とか職場とか、同じ環境で毎日顔を合わせれば当然共通の話題も多いし、そこで馬が合えば友達になったりもするが、やがてそこを離れてしまえば、久しぶりに会っても互いの近況を報告しあうぐらいで、なかなか共通の話題で盛り上がる、というわけにもいかなくなる。
別々の場所で違う風景を見ていれば価値観や物の好みも変わってくる。ていうか変わっていく過程をお互いに見ていないのだから、久しぶりに会ってみると「この人こんなこと言うかったかなあ」と違和感を感じることもある。
興味の対象や意見が一致することも少なくなり、こうして価値観の共有面積が少しずつ少なくなっていって、少しずつ疎遠になっていく。
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