祖父の思い出
先日、私が大好きだった、母方の祖父の二十三回忌の法要が行われた。
久しぶりに訪れた母方の実家は、かつて旅館業を営んでいた古い家である。
何もかもが昔のままで、玄関に置かれた福助の置物、仏壇前には祖父がとても可愛がっていた”ちん”(犬)の置物、いとこの部屋の壁に貼られたアイドル時代全盛期の石野真子の水着姿のポスター、廊下に置かれた内線用の黒電話、トイレに向かう薄暗い廊下、昔ながらのタイル張りの洗面所……
そういったありとあらゆる物が懐かしく、自分が生まれ育った家以上に思い出のいっぱい詰まったその場所に、まずひとしきりの感慨を覚えた。
少し後に叔母やいとこ、私の母が着いた。法要は本家の血の繋がりのある人たちだけでごくひっそりと行われた。
菩提寺の僧侶がお経をあげて帰った後、皆で御詠歌のさわりの部分だけを詠って、故人を弔った。祖父も喜んでくれているだろうと思う。昔はこうやってお盆の度に親戚が集まり、皆で御詠歌をあげて先祖の魂を迎えるのがこの家の習慣だった。
御詠歌なんてもう忘れているだろうと思っていたが、いざ詠ってみれば意外と覚えているものである。自然と口をついて出る独特の節回しが、子供の頃を思い出させた。皆それぞれに故人への思いを馳せ、心のこもった良い法要だったと思う。
その後別の場所で食事の席が設けられ、祖父の思い出話や各自の近況などを話し、おおいに盛り上がった。こんなに大勢の人に囲まれて腹を抱えるぐらいに笑ったのは、久しぶりである。うちの母方の親戚というのはとにかく皆明るい人たちばかりで、皆が必ずしも順風満帆といえるような人生を送っているわけではないが、それぞれにいろんな事を乗り越えて明るく笑って生きている。この明るさというのは宝なのだと、改めて思った。
祖父や親戚にまつわる思い出といえば、数え切れないほどいろんなことが思い出される。
祖父には七人の孫がいる。つまり私のいとこにあたる人たちだが、その中でも私は一番年下だったせいか、祖父にも祖母にもとにかくよくかわいがってもらった記憶がある。小さい頃はいとこ達にもよく遊んでもらった。一人っ子の核家族で育ったせいもあり、親戚筋の賑やかな集まりは大家族のような味わいがあり、いとこたちは私にとって兄弟のような存在だった。
祖母は私が小学校に上がる前に亡くなったので一緒にいた時間は少なかったが、父母に連れられてよく会いに行っていたので、その面影はいつでも瞼の奥に思い描くことができる。
夜になって帰る段になると「もうきんちゃん帰したくない~」と言って私を抱きしめ、帰る車を見送りながら何度も何度も投げキッスをしてくれた。後にも先にも、別れ際に投げキッスをしてくれる女性というのはうちの祖母しか、私は知らない。
祖父が亡くなったのは私が中学三年生の時だった。とても多感な時期だったので、その悲しみもひとしおだった。今でもあの時のことを思い出すと涙が出てくる。身近な人が逝ってしまうのいうのはこうも悲しいものなのだと、人生で最も大切なことを、祖父は最期に身をもって教えてくれたのだと思う。
祖父はとても聡明で物知りで話好きな人で、娘の婿にあたる私の父を相手に長々と世間話をしていたのを、小さい頃よくそばで見ていた。祖父にとってはうちの父は良い聞き役だったのだろう。
私の父は大工職人で、家の修繕に来たところを祖父が見初めて、それが縁で私の父と母は一緒になったと聞いている。これがうちの父と母の馴れ初めである。だから、祖父は父のことをとても気に入っていたのである。
祖父は酒が好きで、酔うと少しエッチな話をする癖があった。今でもよく覚えているのは、祖父が酔った時に言った、
「町で自分好みの、若くて綺麗な女の人とすれ違うと、”あの子の乳首の色は何色やろう”と想像するんや」
という言葉だった。それを聞いたのは小学生の頃だったので、その意味を知ることになったのは私がもう少し大人になってからである。大人になってふとその言葉を思い出した時、”ああなるほど”と思ったものだった。私の下ネタ好きは、祖父のそういう色好きな部分をしっかり受け継いでいるのではないかと思う。というのは、単なる言い訳である。
「電車が走るために引かれたあの長いレール。あれも、電車が通らなければいつか錆び付いてしまう。毎日ああやって電車が一生懸命走ってるから、レールも錆びずに光っていられるんや。人間もそれと同じで、辛抱して毎日がんばっていればこそ、光っていられるし、その先にきっとええことがある」
これは、先日の法事の時、叔父が語ってくれた祖父の生前の言葉のひとつだ。もう少し長生きしてくれていて、祖父と酒を酌み交わす機会でもあれば、こういう話をもっと聞けたのかもしれない、と思う。
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