極私的出来事

祖父の思い出

 先日、私が大好きだった、母方の祖父の二十三回忌の法要が行われた。
 久しぶりに訪れた母方の実家は、かつて旅館業を営んでいた古い家である。
 何もかもが昔のままで、玄関に置かれた福助の置物、仏壇前には祖父がとても可愛がっていた”ちん”(犬)の置物、いとこの部屋の壁に貼られたアイドル時代全盛期の石野真子の水着姿のポスター、廊下に置かれた内線用の黒電話、トイレに向かう薄暗い廊下、昔ながらのタイル張りの洗面所……
 そういったありとあらゆる物が懐かしく、自分が生まれ育った家以上に思い出のいっぱい詰まったその場所に、まずひとしきりの感慨を覚えた。

 少し後に叔母やいとこ、私の母が着いた。法要は本家の血の繋がりのある人たちだけでごくひっそりと行われた。
 菩提寺の僧侶がお経をあげて帰った後、皆で御詠歌のさわりの部分だけを詠って、故人を弔った。祖父も喜んでくれているだろうと思う。昔はこうやってお盆の度に親戚が集まり、皆で御詠歌をあげて先祖の魂を迎えるのがこの家の習慣だった。
 御詠歌なんてもう忘れているだろうと思っていたが、いざ詠ってみれば意外と覚えているものである。自然と口をついて出る独特の節回しが、子供の頃を思い出させた。皆それぞれに故人への思いを馳せ、心のこもった良い法要だったと思う。

 その後別の場所で食事の席が設けられ、祖父の思い出話や各自の近況などを話し、おおいに盛り上がった。こんなに大勢の人に囲まれて腹を抱えるぐらいに笑ったのは、久しぶりである。うちの母方の親戚というのはとにかく皆明るい人たちばかりで、皆が必ずしも順風満帆といえるような人生を送っているわけではないが、それぞれにいろんな事を乗り越えて明るく笑って生きている。この明るさというのは宝なのだと、改めて思った。


 祖父や親戚にまつわる思い出といえば、数え切れないほどいろんなことが思い出される。
 祖父には七人の孫がいる。つまり私のいとこにあたる人たちだが、その中でも私は一番年下だったせいか、祖父にも祖母にもとにかくよくかわいがってもらった記憶がある。小さい頃はいとこ達にもよく遊んでもらった。一人っ子の核家族で育ったせいもあり、親戚筋の賑やかな集まりは大家族のような味わいがあり、いとこたちは私にとって兄弟のような存在だった。

 祖母は私が小学校に上がる前に亡くなったので一緒にいた時間は少なかったが、父母に連れられてよく会いに行っていたので、その面影はいつでも瞼の奥に思い描くことができる。
 夜になって帰る段になると「もうきんちゃん帰したくない~」と言って私を抱きしめ、帰る車を見送りながら何度も何度も投げキッスをしてくれた。後にも先にも、別れ際に投げキッスをしてくれる女性というのはうちの祖母しか、私は知らない。

 祖父が亡くなったのは私が中学三年生の時だった。とても多感な時期だったので、その悲しみもひとしおだった。今でもあの時のことを思い出すと涙が出てくる。身近な人が逝ってしまうのいうのはこうも悲しいものなのだと、人生で最も大切なことを、祖父は最期に身をもって教えてくれたのだと思う。

 祖父はとても聡明で物知りで話好きな人で、娘の婿にあたる私の父を相手に長々と世間話をしていたのを、小さい頃よくそばで見ていた。祖父にとってはうちの父は良い聞き役だったのだろう。
 私の父は大工職人で、家の修繕に来たところを祖父が見初めて、それが縁で私の父と母は一緒になったと聞いている。これがうちの父と母の馴れ初めである。だから、祖父は父のことをとても気に入っていたのである。

 祖父は酒が好きで、酔うと少しエッチな話をする癖があった。今でもよく覚えているのは、祖父が酔った時に言った、
「町で自分好みの、若くて綺麗な女の人とすれ違うと、”あの子の乳首の色は何色やろう”と想像するんや」
 という言葉だった。それを聞いたのは小学生の頃だったので、その意味を知ることになったのは私がもう少し大人になってからである。大人になってふとその言葉を思い出した時、”ああなるほど”と思ったものだった。私の下ネタ好きは、祖父のそういう色好きな部分をしっかり受け継いでいるのではないかと思う。というのは、単なる言い訳である。

 
 「電車が走るために引かれたあの長いレール。あれも、電車が通らなければいつか錆び付いてしまう。毎日ああやって電車が一生懸命走ってるから、レールも錆びずに光っていられるんや。人間もそれと同じで、辛抱して毎日がんばっていればこそ、光っていられるし、その先にきっとええことがある」

 これは、先日の法事の時、叔父が語ってくれた祖父の生前の言葉のひとつだ。もう少し長生きしてくれていて、祖父と酒を酌み交わす機会でもあれば、こういう話をもっと聞けたのかもしれない、と思う。
 
 

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記念日

 昨日は結婚記念日だった。実に丸八年、早いものだ。妻の好きな手巻き寿司を家で食べて、ささやかに祝った。
 こんなうだつのあがらない亭主に文句ひとつ言わず、毎日何が楽しいんだかいつも機嫌良くニコニコと笑って、本当によく一緒についてきてくれたものだと思う。うちの夫婦がうまくいっているのは、全て妻のおかげだ。俺は何ひとつ、夫らしいことなどできてはいない。


 ずっと仲の悪い両親の姿を見て育ってきたので、家庭や結婚というものには良いイメージを持っていなかった。むしろ、否定的だった。結婚なんてろくなことはない、ずっと自分は独身を通そう、と頑なに心を決め、周囲の人間にも公言していた。
 そんな自分がどういうわけか縁あって結婚して、まあ曲りなりにではあるが、大きな諍いもなく毎日平和に暮らしているのだから、人生には何か起こるか分からないものである。20年前の自分が見たらびっくりするだろう。当時は想像だにしなかったのだから。

 これも必然といえば必然である。もし妻と知り合っていなかったら、家庭というものの温かみも知らず、僕は未だにどこか心の閉じた、殺伐とした気分を抱えた人間として生きていたに違いない。何か目に見えない力が、「その考え方を改めなさい」と、彼女を引き合わせてくれたのではないかと、今でも時々思う。
 妻と知り合って親しく話すようになった頃、彼女は言った、「人と人とが仲良くすることが、一番大事なのだ」と。
 彼女は特に何かに長けた人間というわけではないが、僕がそれまで一番疎かに考えていたことを、一番大事にして生きている。それが彼女の一番尊敬できる部分でもある。


 彼女と付き合い始めて間もない頃、僕は父に彼女の写真を見せ、「この人と結婚しようと思う」と唐突に切り出した。父とまともに口を利くのは何年ぶりだっただろう。物心ついた頃からそりが合わず、やることなすこと全て反対する父に、僕はずっと反目し、避け続けてきた。

 父は僕のその言葉を聞いて、声をあげて大泣きした。父の涙を見たのは、あれが初めてだった。それまで父には心配ばかりかけてきたので、きっと安心したんだと思う。その後彼女を正式に紹介した時も、父は彼女を大変気に入り、「あの子だったら大丈夫だ」と言ってくれた。後にも先にも、僕がやることに賛成してくれた只一度の出来事だったと思う。

 結婚式の司会は、高校時代からの付き合いである、無二の親友に頼むことにした。なぜ彼に頼んだのか、未だに動機が定かではないが、きっと彼に、これからの人生の門出を見守って欲しかったんだと思う。彼は二つ返事で僕のあつかましい頼みを受けてくれて、さっそく司会で話す言葉などを一生懸命考えてきてくれた。今でもそのことを思い出すだけで、感謝の気持ちでいっぱいだ。彼との付き合いは今でも続いているし、これからも続いていくだろう。

 式の当日を迎え、僕は父を助手席に乗せて式場へ向かった。車の中ではあまり話をしなかったが、礼服に着替えを済ませ、沢山の親戚や友人が式の始まりを待つ広いロビーで、父は不意に「お前には本当に、何も……」と言って人前もはばからずさめざめと泣いた。たぶん、いいかけたその言葉は「お前には本当に、何もしてやれなかった」だと思う。

 そこで初めて僕は、父へのそれまでのいろんな不満がどうでもよいことのように感じられた。小さい頃から体の弱かった僕をここまで大きくしてくれて、この日を迎えさせてくれたのだから、それだけで十分なのだ、それ以上望んだのは罰当たりなことだったと思った。
 幼い頃、高熱を出した僕をおぶって夜中に病院へ連れて行ってくれた父の、広く温かい背中を思い出した。

 そうこうしているうちにリハーサルが始まりますよ、と係の人が呼びに来た。チャペルに案内されると、神父さんがやって来た。プロレスラーのような巨漢だが、キリンか象か鯨のような、とても優しい目をした人だった。
「今日はよろしくお願いします」と握手を交わしたその時の、神父さんの手があまりにも大きくて温かく、リハーサルが始まった途端に僕は「やっとここにたどり着いた」という安堵感と、それまでの人生のいろいろが走馬灯のようによみがえってきて、涙があふれてしまった。まだ式も始まってないのに。

 式の最後、新郎の父の挨拶で、父は「今まで私はこの子を時には叱り、時には励まし、時には傷つけ……」と言ってまた泣いた。その言葉で僕は、父への頑なに閉ざしていた気持ちが氷解していくのを感じた。今まで言葉にして聞くことのなかった父の思いを、改めて知ったのだった。


 愛情なんて数年たてば冷めて、夫婦なんてただの同居人になるものだとよく人は言うし、僕も自分が結婚するまではそういうものだと、周囲の冷め切った夫婦を見てそう信じ込んでいたが、八年経った今も、二人の間に流れる心穏やかな空気も、妻が僕に与えてくれる惜しみない優しさも、僕の妻へのいとおしい思いも、最初に僕が彼女の手を握った時と何一つ変わってない。そしてそれは八年の年月の中でそれなりにいろんなことを乗り越えて、むしろ揺るぎのない絆のようなものに変わっていったのだと思う。

 結婚して学んだことがひとつあるとすれば、夫婦円満の秘訣は、相手に期待しないことだ。お互いが元気に健やかで、他愛のない毎日に笑って暮らせることができれば、それ以上のものは何も望む必要はないのだと思う。

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記念日のデザート

Desert

今日は結婚記念日だったので、ありあわせのもので作ったデザートでお祝い。
”リンゴのキャラメル煮とヨーグルトのミルフィーユ仕立て、アイスクリーム添え。”

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T先生の思い出

高校2年の時の担任の先生は、大学を出たばかりの若い女の先生で、少し日本人離れをした顔立ちの美人だった。

先生の担当教科は英語。
先生は最初の授業で、自己紹介を兼ねて御自身が大学で書いた卒論の話をしてくれた。
内容はよく覚えてないが、確か言語学の専攻で、世界中の言語の共通点、みたいな内容だったと思う。
高校生のガキに大学の論文なんて分かりっこないだろうに、そういう話をしてくれたのがある意味新鮮で、「先生らしくない先生だなあ」というのが第一印象だった。
今思えば、ついこの前まで学生だったんだから、当たり前なんだが。

授業の始まりと終わりにはほぼすべての先生が生徒に起立、礼をさせるのが当然の約束事だったが、T先生だけは
「そんなのやっても意味がない。私が教室に入ってきたらそこからが授業の始まり。自分自身で気持ちを切り替えなさい」と言って、T先生の授業だけは始業と終業の起立、礼はなかった。

T先生は、生徒を少しえこひいきする癖があった。
「親がよく、兄弟は何人いても平等にかわいいとか言うでしょう。あんなのウソ。生徒にだってかわいい生徒とかわいくない生徒がいるのよ」と私だけにこっそり言ってくれたことがあった。
おいおい、教師がそんなこと言っていいのかよ、と思ったのだけど、面白いことをいう先生だなあ、とも思った。


僕は高2の夏頃に父親と喧嘩をして、一度家出をしたことがあった。
友人の家のガレージに一晩泊めてもらって、次の日はそのまま学校に行った。
誰も相談できる大人がいなかったので、放課後職員室に行ってT先生にいろいろと胸の内を打ち明けた。
先生は具体的に何かアドバイスをくれるわけでもなく、なぜか唐突に先生自身のご両親や兄弟の話をしてくれた。
「まあ、どんな家にもそれなりにいろいろとあるんだから。親と子って元々一筋縄ではいかないものなのよ。」みたいな事だったんだろう。「とにかく今日は家に帰りなさい、それから先の事は、その後に考えればいい」と言ってくれた。父とはすぐに仲直りできなかったが、先生の一言で気持ちが少しだけ楽になった。

秋ごろに僕が扁桃腺の切除で入院した時、先生はプリンを持ってお見舞いに来てくれた。
淡いピンクのタートルネックのセーターにベージュのカーディガンを羽織った先生のやさしい笑顔は、今でも目を閉じるだけでハッキリと思い出すことができる。
お見舞いのお礼を何もしていなかったので、京都へ遠足に行った時に黄楊の櫛(つげのくし)を買って、「これ京都のおみやげです」と言って渡した。先生も引率で行っていたのだからお土産というのもおかしいのだが、今思えば母親以外の女性に贈った最初のプレゼントだった。


高校を卒業して数年後、先生が結婚すると聞いた時は、なぜかとてもショックだった。素直に祝福する気持ちになれなくて、しばらく落ち込んでた。今考えれば、子供だったなあと思う。

今頃どうされてるんだろうか。T先生のことは時々思い出す。
男の子には必ずといっていいほど、年上の女性に憧れる時期というのがあって、僕にとってT先生はそんな淡い憧れの人だったのかもしれない。

いつも凛(りん)としていて、それでいて時折見せる先生らしくない素の部分にふとした茶目っ気があって、「大人になったらこんな女性とお付き合いしたい」なんて考えたこともあったけど、後にも先にもT先生みたいな人に出会うことはなかったなあ。

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過労死について

 前回「弔い酒」の続き。
私自身も三年前、会社に殺されかけた経験を持つ者として、今回の事はどうしても人ごととは思えない。

 日本での年間の過労死は推定約一万人、過労の末の自殺、過労自殺が推定1000人といわれている。
この辺のきちんとしたデータが、いくら調べても出てこない。公式に認められてない数なので、どこをみても推定の域を出ない。どなたか信頼性のあるデータをお持ちの方、情報提供を求めます

 公式に認められているデータとして、2005年、過労で労災認定されている数はたったの157人西日本新聞)。
身内が過労死しても、悲しみに打ちひしがれ、訴えても故人は戻ってこないと泣き寝入りしてしまうケースが多いのだ。もちろん企業が自主的に過労死を認定するケースも皆無に等しいのではないだろうか。


◆過重労働の実情◆

 私が以前店長として在籍していた飲食チェーン系の会社では、月間の労働時間は300~360時間。休みは多い時で月3回、二ヶ月間休みなし、というのはザラだった。帳簿や書類の仕事・シフト管理などは家に持って帰ってやっていたから、実質的にはもっと働いていたことになる。(ちなみに所定労働時間は177時間、それ以上働いても残業代は一切ナシ)
 社員は一人(店長)~数人でそれ以外は全員パート・アルバイトという職場環境が通常で、会社から店舗毎に予算として割り当てられる人件費があまりにも少なく、足りない分を社員がサービス残業(タダ働き)して賄っていた。
 売り上げや利益に対するノルマやプレッシャーも厳しく、退職する社員が後を絶たず、社員不足が慢性化していた。3~5年ぐらいで皆やめていったと思う。

 退職後、労働基準監督署に申し出て過剰労働分の残業代を請求する者もいたが、その際の会社からの圧力も相当きつかったと聞く。多くの者が疲れ果て、もう会社と関わりたくないとの思いから泣き寝入りするケースがほとんどだった。もちろん、在職中の訴えは会社にいづらくなるので、誰もやらない。

 以前会社の研修の後、社長と社員数名で飲みに行く機会があり、多少酒のまわった社長がこう発言した。
 「労働基準法なんてクソくらえだ」
 そんな意識の経営者だった。
 私は「そんなことだから社員がどんどんやめていくんですよ」と言いたかったが、言う勇気がなく、拳を握り締めて黙ってうつむいてるしかなかった。
 社員は使い捨て。どんどんやめても入ってくる。若い社員を安い給料で雇えればその方が得、これが社長の真意だったと思う。実質そのような趣旨の発言を耳にしたことがある。


 違う職種では、毎日終電ですよ、とか、この一週間会社に泊まりこみですよ、とか言う話もよく聞く。日付をまたいでから帰宅、3~4時間の仮眠の後シャワーを浴びて出社、とか。うちのいとこもそうだったようだ。

 実際このような労働環境がどういった職種でどれぐらい行われているか、日本で働く人の何%がこのような状態にあるかは私には分からないが、少なくとも私の知っている限りでは皆体力や精神力の限界ギリギリの所でせめぎあいながら働いている人がほとんどだ。そこから逃げ出したければ、ニートかフリーターになるしかない。だが、それで決して楽になるわけではない。生活の維持、という新たな困難が待っている。

 私には、今の社会が「熱湯風呂」のように思われてならない。熱いのを我慢して漬かっているか、感覚が麻痺して熱さに慣れてしまうか、ワーカホリックで熱さが快感に変わるか、我慢できなくなってそこから飛び出すか、最初から熱いのを知っていてそこに入ることを放棄するか。

 もちろん、不景気の中でリストラやサービス残業を社員に強いなければ倒産していた会社もあるだろう。そうしても会社の存続や社員の生活を守らなければならないという選択もあったと思う。しかしその結果多大な利益をあげた一部の企業はどうなのか。その利益はいったいどこに分配されるのだろう。

 労働には多少の激務が伴うのは当然かもしれない。その対価として給与という報酬が与えられるのだから。楽なだけの仕事は決してこの世には存在しないだろう。しかし、体や精神を蝕んだり、死に至ってしまうのは全く異質のものであり、別次元の問題であると思う。
 「健康管理は自己責任」というのも一理あるが、それにも限度がある。

 ここでは労働時間について主に取り上げたが、もちろん労働の対価=時間だけで語れるものではない。暇な仕事をだらだらと長い時間働いて残業代が出ないと文句を言っているわけではない。
 職種によっては、10時間かかる仕事を集中力でもって8時間で上げられる事もあるだろう。もちろんそういった努力も大切だと思う。しかしそこで「じゃあ、もっとやって」と言われてしまえば、そういった努力も水の泡になってしまう。

 日本にも一応、「労働基準法」は存在する。しかし実際それが守られていなくて、何が法治国家といえるのだろうか。しかし労基法の締め付けをきつくすれば、企業側は「じゃあ、人件費のかかる正社員は雇わない」とパートやアルバイトの比率はますます高くなっていくという結果が待っているだろう。企業側にとっての逃げ道はいくらでもある。企業にとって都合のいい人件費削減の口実でしかない「成果主義」の導入や、ホワイトカラーや一部職種への「裁量労働制」の導入。事態は改善されるばかりか、悪化するばかりだ。

 こういった問題はフリーターやニート、少子化問題、自殺者の急増とも無関係ではないと思う。これらの問題について論じられる時、こういった社会の実情が見落とされているように思えてならないのだ。
 もうひとつ言わせてもらえれば、少子化対策(産めよ増やせよ対策)も結構だけど、生きてる人間ももっと大事にして欲しい。ひょっとして、この国自体が国民を使い捨てと考えているのか???

 とにかく、そこで人が現実に死んでいるのだ。


【関連サイト】
過労死
川人博『過労自殺』
労災と過労死(1993)
団藤保晴の「インターネットで読み解く!」第82回「過労自殺判決と新たな裁量労働制」
サービス残業関連ニュース

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弔い酒

 水曜の夜、訃報が届いた。
いとこが亡くなった、とのことだった。俺と同じ歳、三十代半ばだった。

 いきさつを聞いたが、原因は、誰がどう考えても過労死だった。
長期間の激務が続いていたのだという。
ただし、会社はそのことを認めてはいない。
表向きの死因は心不全か心筋梗塞だったと思う。

 実家から遠く離れた土地に一人暮らしをしていた。
週末に部屋で一人で亡くなった為、すぐには誰にも発見されなかったらしい。だから、正確には何日何時何分に死んだのかさえ分からない。

 葬儀の日、遺体はすでに火葬されて骨壷に入った状態で帰ってきていた。俺は最後に顔を拝むことすらできなかった。亡くなって発見されるまで時間が経っていたこと、葬儀まで約一週間あることから、遺体がもたない、つまり俺たちに見せられる状態ではなくなっているだろうとの配慮だった。

 親戚筋の約10人ほどでひっそりと葬儀がとり行われた。
 会社の人も来ていたようだが、丁重にお引取り頂いていた。
叔父さん(いとこの父)の口調は感情を抑えた穏やかなものだったが、その心中はきっと「どのツラさげて来とんじゃヴォケ!」というものだったに違いない。悲しみと怒りの満ちた感情が顔に溢れていた。本当の怒りにかられている時、人はこういう顔をするのだろう。叔母さんは目を真っ赤に泣き腫らしていた。祭壇の横には会社の役職名の書かれた献花がずらりと並べられていた。

 俺が怒りを感じたのは、勤務時間外での自宅での死亡だった為、労災が認定されないという事実だった。
もちろん会社が積極的に過労死を認めるわけがないだろう。もしこれが世間に明るみになれば大きな問題になり、企業のイメージ低下にもつながる。上役達だって管理責任を問われかねないから、自分たちの保身に必死だろう。予め断っていたにも関わらす葬儀に現れたのも、献花も弔電も、家族にとってそれは誠意の現れではなく、そうした保身の為の行動としか受け取れない。

 訴えることも当初考えたらしいが、もうこれ以上関わって辛い思いをしたくない、もし裁判で過労死が認定されて賠償金が下りても故人は帰ってこないから、もうこのままそっとしておくらしい。

 ちなみに、その会社は聞けば誰もが名を知っているような一部上場の大企業だ。

 午前1時過ぎに帰宅して3~4時間の仮眠を取り、また起きて仕事に行くという生活が続いていた。身の回りの事をする時間などなく、部屋のテレビの上はホコリをかぶり、洗濯物やビールの空き缶が溜まっていたらしい。自炊など勿論できるわけがないので、きっとろくな食生活を送っていなかったのだろう。これも命を縮める原因のひとつだったのかもしれない。

 学生時代からスポーツが好きで、体も丈夫だった。社会人になってからも、時間を見つけて様々なスポーツを楽しんでいたという。その丈夫さも仇となったのだろう。生真面目でがんばりすぎる性格も災いしたと思う。

 ずっと独身だった。だれかそばにいればまた違っていたかもしれない。よく叔母からの年賀状に「いい子がいたら紹介してあげてください」と書かれていた。だれか紹介してあげればよかった。今更言っても仕方がないけど。
 本人は「仕事が忙しく、家族を幸せにする為の時間がないから」と結婚には消極的だったらしい。

 遺影に使われた写真は、三年ほど前にお見合い用にと思って撮られた写真だった。まさか遺影になるだなんて。悲しすぎる。

  ◆◆◆◆◆

 葬儀の後、食事の席が設けられ、故人の思い出を語りあった。そのあと骨壷と遺影は実家に帰り、花が飾られた。元気だった頃の写真をめくりながら、皆で在りし日の故人をしのんだ。

 幸いうちの親戚筋はみな明るい人間ばかりなので、終始にぎやかだった。故人にとっても家族にとっても、何よりの慰めになると思った。

 夜になって皆と別れた後、抑えていた気持ちがずっと溢れて止まらなかった。

 

 どうして死ぬまで働かなければいけなかったんだ。

 小さい頃から優秀で、一流の大学を出て一流企業に勤めて、誰にも恥じないまっとうな人生を歩んで、両親にとっても鼻の高くなるような自慢の息子で、でも死んでしまったらそんなの意味ないじゃないか。どうしてお前みたいないい奴がこんな若さで死ななければいけなかったんだ?がんばった結果の見返りがこれじゃ、あまりにもむごすぎる。

 仕事はやめても代わりはあるかもしれないけど、命には代わりはないんだぜ。仕事辞める、って選択肢をどうして思いつかなかったんだ。何がお前をそこまで踏ん張らせた?大企業に勤める誇りか?それとも責任感か?

 

 なにが景気回復じゃ!人死んどるやんけ。こんな世の中、明らかに間違ってるよ。
 

 ただ、短い人生を息切れするまで突っ走り続けた彼が幸せだった事を信じたい。でなけりゃ、あまりにも浮かばれない。
 天国にはノルマも納期も残業もないんだから、何も気にせずにゆっくり休んでくれ。

 冥福を祈ります。 

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ファニエスト イングリッシュ

ちょっと前の話だけど、妻と大阪の海遊館という水族館に行った。

お目当ては魚ではなく、
併設されているショッピングモールで開催されていた
「シュークリーム博覧会」。
シュークリーム食べる為に、わざわざ電車に乗って出かけたのだ。

そういえば誰か学生時代、
讃岐うどんを食べる為に車を飛ばして香川県まで行ってたな。
ものすごいフットワークだ。

それはさっておき、その帰りの駅の改札売り場にて。
外国人が「Can you speak English?」と困った顔でたずねてきた。
どうも使いかけで残額わずかのプリペイドカードを持っていて、
買い足して電車に乗りたいらしい。
英語は苦手なのだが、他に人通りも無く、
ここは何とかしてあげなくてはならない。
どうやら、この駅では同じ路線のカードは買えないらしい。

「ユー キャント バイ ア ニュー カード アット ディス ステイション」
と言ってみたが、私の発音が相当悪いらしく、なかなか通じない。
(というか、英語にすら聞こえてなかったかも知れない)

「ウェア ドゥ ユー ウォント トゥ ゴー?」
と聞くと、行き先の書かれたメモを指差すので、路線表を指差しながら、
途中に乗り換え駅があることも何とか身振り手振りで説明した。
彼は新しいカードを購入したがっていたのだが、
どうもこの駅では買えそうになかったので、使いかけのカードを指差し、
「インサート ディス カード。プラス ワン ハンドレッド アンド トゥエンティ イェン」
と説明して、なんとか切符を買うことができた。

乗る電車の方向が同じだったので、乗り換え駅に差し掛かった所でもう一度
「チェンジ ザ トレイン アット ネクスト ステイション」
と念を押して、そこで別れた。 

・・・冷や汗ものでしたよ。
なにせ、英語を使うなんて何年ぶりなんですから。
しかし思ったのだけど、英文科卒の妻は、ずっと黙ってました。
なんでやねん!!!

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なんだか微妙な結婚記念日

昨日は私たち夫婦の、
5回目の結婚記念日でした。

ふたりで堺市の『ハーベストの丘』へ。
敷地内には一面のコスモス。
ハーブ工場や地ビール工房、手作りパンや雑貨クラフトなどの体験教室、乗馬コースやゴーカート、芝すべりのゲレンデなど盛り沢山の遊び場があるのですが、今日は主にふれあい広場で動物たちとふれあいました。
ウサギやヤギと触れあい、わんわん広場ではワンちゃんたちを抱っこしたりして、とても楽しい時を過ごしました。

ここまではよかったのですが。

夕食は何度か行ったことのある回転寿司屋さんへ。
え、結婚記念日なんだからもうちょっとしゃれた店に行けって?
我々はその店のすしが食べたかったのですよ。

最初の一皿を食べた時、『ん、前に来た時と味が違うな』
どれもネタが乾き切っており、
新鮮味がないのです。

しかも、カミさんはカルピスサワーを頼んだのに、
運ばれてきたは普通のカルピス。
残ったビールを飲み干して、早々と店を去ることに。

せっかくの記念日なのに、なんだか沈んだ気分に。
どうしちゃったんだろう、この店。

せっかくの結婚記念日をこんな気持ちで終わらせたくない。

結局、時々行く地元のおいしい焼肉屋さんで仕切りなおし。

さっきのすしとは比べもんにならんぐらいうまかったとです!!
そういえば、去年の結婚記念日も、ここで焼肉食ったなあ。
最初っからここにすればよかった。

話を戻しますが、『ハーベストの丘』、遊び所満載で、とても楽しいところです。
子供連れでも楽しめます。
泉北高速線・泉が丘駅からバスで15分。

http://www.farm.or.jp

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馴れ初め

結婚して4年半になる。
あまり仲の良くない両親を見て育ってきたので、
結婚願望を抱くことは若い頃からなく、一生独身でいるつもりでいた。
それがなぜか、縁あって妻と知り合い、結婚した。

知り合った時はお互い第一印象も悪く、言葉を交わすこともなかったが、
ふとしたきっかけで一緒に食事をした。
共通の話題もなく盛り上がらなかったが、
なぜかそれからお茶を飲みに行ったりするようになった。
そうして二人で何度か会っているうちに相手の意外な良い面を知ることができ、
結婚にまで至ってしまったのだから、人は第一印象で判断できないものである。

一生独身宣言をしていたので、結婚すると知らせた時は周りもびっくりしたが、
何よりもびっくりしたのは自分自身だ。
人生何が起こるかわからないものである。
10年前の自分がもし見たら、びっくりするだろうな。

世の中には結婚願望の強い人もいるし、
かつての私のように一生独身を通すという人もいる。
しかし、無理して結婚する必要もないし、無理に独身を通す必要もないと思う。
私の場合も、もし妻と知り合ってなかったら今でも一人でいたと思うし、
それはそれで、そんな人生もあっただろうと思う。
 
私の場合は、妻との関係を通して人との間に「良い絆」が得られる事が分かり、
人生観が変わった。それによって他者との関係の中で物事を考えることが
できるようになった。自分に一番欠けている部分を持った人と
一緒にいるのだから、夫婦って、よくできたものだなあと思う。


そういえば、2ちゃんねるの昔のスレッドで、
「10年前の自分に手紙を書くとしたら」というのがあった。
「もっと勉強しておけよ」とか「あんな男とは別れろ」とか
色々あって面白かったが、僕ならこうかくかな。

 「あなたは1999年に結婚します。
 今のあなたには想像できないでしょうが、
 幸せな結婚をするので、安心して下さい。
 願っていた夢は叶いませんが、また別の形で始めることになります。
 
 それから一度、血を吐いて倒れるけど、
 その時は、観念して療養に専念すること。
 きっとあなたにとって人生を振り返るいい機会と、
 いい充電期間になるでしょう。だから、悲観しないように。
 いろいろ悩んだりもするけれど、ちゃんと乗り越えて、
 自分なりの答えを出せるようになるので、大丈夫です。
 
 それから、奥さんと友達は大切にするように。
 あなたを見守り、助けてくれます。」
 

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先生との思い出

それは、小学校の3,4年生の二年間を受け持ってくれた、
担任の奥田先生は、僕の人生に大きな影響を与えてくれた。

先生は、特に国語に力を入れておられた。
授業では月一回の朗読会と、毎日日記を付ける事になっていた。
おかげで、今でもこうして文章を書くことには不自由しない。

先生は書道の師範の免許も持っておられて、
段も何もない私の書道を、何度かコンクールに出してくれた。

音楽と図画・工作の授業にも熱心で、
今思えば、僕に音楽や物作り、そして表現することの素晴らしさを
教えてくれた人だ。

この先生に教わったことは、今の自分を形作るとても重要な要素に
なっていると思う。

卒業してからもとても美しい文字と色鮮やかな版画の年賀状や暑中見舞いを
送って下さった。
中学に入って、ブラスバンドでトランペットを吹いています、と便りを出したら、

「努力できることも才能のひとつですよ」

という励ましの言葉を頂いた。
この言葉は、何度も僕を勇気付けてくれた。

自宅が近かったので何度か道でばったりお会いすることがあった。

教職を退かれてからは、自宅で書道教室を開き、
子供達に書道を教えておられたようだ。

日記を書いていた時によく言われたのは、
「同じ事の繰り返しの毎日の中にも、書くべき事は必ずある」
ということだった。

当時カラダが弱く、あまり外で遊ばなかった私に、
まっと外に出て体を動かすように、と勧めてくれたのも、先生だった。

先生との思い出を書くと、きりがない。
今これを書いていて、なぜか涙があふれてくる。

今の子供たちにも、こうした「恩師」との出会いが、あるのだろうか。


奥田先生、本当に、ありがとうございました。
 
 

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結婚式の思い出

最近、結婚式をしない若いカップルが、多いようですが。

私が結婚したのは、1999年。(結婚指輪の裏に彫ってあるので、絶対忘れない)
11月3日(一年間で一番晴れる確立が高い日。その通り、当日は快晴でした)
仏滅(料金が安かったから)。

兵庫県明石市の、昔の醤油蔵を改装したという所で、
レストランウェディングを挙げました。

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呼んだのは、親と親戚と本当に親しい友達数人。
ささやかでしたが、心温まる、いい式になりました。

司会は、高校時代からの友人が、快く引き受けてくれました。
本当にうれしかった。ありがとう。

一生に残る、良い思い出です。
「育ってきた環境が違うから」(by山崎まさよし)結婚生活には、それなりに色々あります。
だからこそ、二人の生活はここからスタートしたんだなあと思える日があるという事は、
とても大切です。

それと、今まで育ててくれた親への感謝の気持ちを、しみじみ噛み締める日でもあります。

これから結婚する若い方にはぜひ、
ささやかでもいいから結婚式を挙げる事を、是非おすすめ致します。

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