私はある町にいる。
この町を歩いていると、いきなり見ず知らずの人から阿呆馬鹿呼ばわりされたり、批判罵倒されたり「お前の意見は間違っている」とか言われてびっくりすることがある。
びっくりするだけならまだいいが、私のような小心者はそれだけで気が萎える。
阿呆馬鹿言い合ったり本音をぶつけ合ってもそれが許されるのは、そこにお互いの信頼関係がある時のみである。それには、初めましての挨拶があり、お互いの価値観や物事の好み、根底にある価値観などをを知る為の会話の積み重ねと時間が必要になる。
そういった一切の手続きをすっとばしていきなりキツい言葉を浴びせられるので、それに耐えられない、慣れることができない人はこの町から出て行くことになる。
そのうち、なるべく阿呆馬鹿言われないように気を付けて物を言う知恵を身に付ける。地雷をなるべく踏まないようによけながら、突っ込まれる隙を作らないように、肝心な所はぼやかして、言い回しや言葉などを巧みに考えながら。それが唯一の自衛手段である。ただ、その為に言いたいことが真っ直ぐには伝わりにくくなる。
しかしふと我に返る。なんでこんなにびくびくしながら物を言わねばならんのだと。別に誰かを貶めたり傷つけたりするつもりはない。何か物事に対して「俺はこう思う」と言うことに、なぜそんなに恐れを抱かなければならないのかと、ふと思う。
皆それぞれ違う意見があってそれぞれの意見を言うことは別に構わない。賛成や肯定だけを良しとするわけでもない。違う価値観の人間が集まっているのだから、反論はあって然るべきである。
しかし、その為に相手の意見や人格を否定する必要はないし、居丈高に物を言う必要もないと思うのだが、そうは思わない人もいるのだろう。
相手の意見も尊重しつつ自分の意見も主張することで、互いに気持ち良く前向きで建設的な対話ができると思うのだが、そんなものはハナからこの町では求められてないのかもしれない。
批判をトリガーとしてしか自分の意見を述べられない人もいるようだが、自己主張したいならばそれはそれとしてやればよい。何も批判するべき対象をわざわざ持ち出してきてやらなければできないということもないと思う。
それに、主観に主観を持って対抗し、どちらが間違ってる正しいの勝負をしても、らちがあかないばかりか、お互いが気分を害するだけである。
イヤなら私もこの町から出て行けばいいのであるが、ここにはいい人たちも沢山いるのでなかなかそれができないでいる。今日もびくびくと地雷を踏まないように気をつけながら、歩いているのである。