コミュニケーション

食わず嫌い

知り合いが先日結婚したんだが、旦那の好き嫌いが多くて困っているという。結婚前から知ってはいたが、これほどとは思わなかったと。
しかも、その多くが”食わず嫌い”である。

しかも、”そんなもん人間の食いもんじゃない””よくお前そんなの食べられるな”とか言ってけなすのだ。
そのくせ、自分がおいしいと思う物を時折買って来ては奥さんにつよく薦めるそうである。

私はこの”食わず嫌い”というのが、よくわからない。食べたことのないものを、嫌いになれるのだろうか?
食べ物だけじゃない。ろくに知りもしないものを根拠もなく嫌いになるって、どうなんだろう。それって偏見の一種じゃないの?まあ誰にでも多少はあるけど、度を過ぎると害になる。

ともかく好き嫌いの多い人と一緒に暮らすのは、骨が折れると思う。うちの両親がそうだった。食事のことでよくケンカしてた。反面教師になったのか、私には食べ物の好き嫌いはほとんどない。これだけは親に感謝している。舌の好みは遺伝しない、ともいえる。

逆に、食事の時間を一緒に楽しく過ごせたら、夫婦ってなんとかなるんじゃないだろうか、とも思う。独身者が結婚相手を選ぶ時は、そこを考えた方がいい。

そういえば銀魂のサブタイトルに、「食べ物の好き嫌い多い人は人間の好き嫌いも多い」ってのがあったな。どうなんだろうか。当たってない気がしないわけがないでもない。

Takenoko_takikomi
タケノコとキヌサヤが残ったので、次の日はたきこみご飯にした。
昔嫌いだったけど、大人になって好きになったものはいっぱいある。
食べ物だけじゃない。嫌いな物より好きな物の多い人生の方が、絶対幸せだ。
あれが嫌い、これが嫌い、あいつが嫌い、こいつが嫌いって言ってる人と話してても、ちっとも楽しくない。

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好き嫌いの多い人と食事に行く

好き嫌いの多い人と、居酒屋のような大皿料理を取りあうタイプの店に食事に行くと、困る。
相手の嫌いな物は注文できない。気を使う。

会話においても似たようなところがある。興味のない話や、嫌いな物の話をされると、あからさまにいやな反応をする人がいる。そういう人に限って、自分の好きなものの話は喜々として話し、相手の趣味が自分と違うと、平気でけなす。

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ちゃんと受け止めてくれる人にしか、話せない

二人の人から相談を受けた。

・学生で、ある夢を持っており、そのことを親になかなか言い出せないでいる。
・既婚女性で、夫婦間に問題を抱えており、夫と相談したいが、話せないで不満だけを貯め込んでいる。

どちらも、話しても分かってくれないだろう、と思っている。

自分の話をちゃんと受け止めてくれる相手でないと、何も話せないものだ。
「この人に言っても聞いてもらえないだろう」「何を言っても無駄だろう」「何か言い返されて傷つくかもしれない」と思えば、言わない。言って傷つくぐらいなら、黙っていればいい、と思ってしまう。

何かを話しても、鼻で笑われたり、頭ごなしに否定されたり、一方的な考え方を押し付けられたりすると、その人にはもう何も話したくなくなる。

この人に話しても仕方がない、と思えば、言うのもバカらしくなる。そして、あなたが私の話を聞いてくれないなら、私もあなたの話を聞かないわ、となる。そうやって互いの溝がどんどん深くなっていく。

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アイデアだけでは、形にならない。

アイディアマンと技術者の憂鬱(はてな匿名ダイアリー)
http://anond.hatelabo.jp/20090403015444

アイデアだけでは、何も形にならない。技術だけでも形にならない。
アイデアマンがいて、技術者がいて。アイデアを形にするには、その間を埋める作業が当然必要になる。
コンセプトは?予算は?スタッフの人数は?役割分担は?作業工程は?細かい事柄をひとつひとつ、詰めていかなければならない。

それを何とかするのが技術者の仕事だろうが。

違うと思う。アイデアを具体化し、育てていく過程が両者の間でないと。漠然とした思いつきを人に投げるだけでは、何も返って来ないし、技術者の苦労だって少しは考えたほうがいい。

アイデアだけ投げれば誰かが形にしてくれるなんて、虫のいい考えなんじゃないかな。技術者はドラえもんの四次元ポケットじゃないんだからさ。

頭の良い人や腕のある人がどうにかしてくれるだろう、では何も始まらない。

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自分の見ている世界が、全てではない

Browser.js [論点 35] なぜエレベータに鏡がついているのか

人というのは、自分の認識がすべてだと思う傾向にあります。<中略>そのような姿勢でいると、物事を客観的に判断することができないことがあります。
そういう状態でいると、物事の発想が偏狭になり、人の意見に流されやすくなり、自分自身で考えることができなくなってしまって、いろいろな意味で損をしてしまうことにもなりかねませんよね。
自分の認識している世界がすべてではないのだということを常日頃から理解し、その訓練をしておくことが重要
自分がその対象でないと、思考の枠外に追いやってしまう傾向にあります。つまり、その部分は認識できないというわけですね。

なかなか興味深い問題だと思う。
自分の認識の範囲外の物事は”存在しない”のではない、単に自分が見えてないだけなのである。そして見落としてしまった事柄の中に、大事な物があることも少なくない。
”私には関係ない”と切り捨ててしまうことは簡単だ。
しかし、それは本当に価値がないものなのだろうか?
自分には関係のないもの、だから”必要ない”のではない。なぜ排除しようとするのか?
自分の認識できる範囲内だけで物を考えると、考え方がどんどん偏っていき、視野狭窄に陥ってしまう。

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”好感度を下げる会話パターン”

好感度を下げる8つのダメな会話パターン | 人を動かす(説得)する為の話の仕方(元記事が消えていたのでキャッシュ)

1 議論好き 2 すぐに自分の体験と比較する 3 「○○のほうがいい」を連発する 4 「自分の辛い話を聞いてほしい」 5 他人の批判をする 6 人の話をさえぎる 7 つねに不満を並べる 8 ゴシップや陰口を広める


他にもいろいろ思いつきますが……

・人の話に耳を傾けない。でも、自分の話は聞いて欲しい
・人の話の流れを遮って、持論を展開。
・常に自分が正しい。
・会話の主導権を握らないと気が済まない
・いちいち噛み付いてくる
・言われた相手の気持ちを考えずに言葉を発する(自分がスッキリすればそれでよい)
・人の言葉尻をあげつらう、揚げ足を取る
・人の言葉を曲解する。あさっての方向から突っ込む

・生理的な好き嫌いでしか物事を判断しない。しかも好き嫌いが多い
・人の好きなものをけなす。そのくせ、自分の好きなものをけなされると怒る
・でも、自分が良いと思ったものは強引に薦める

・褒めるより、けなすことが多い。しかも根拠がない
・先入観でものを言う。
・ろくに知りもしないことを批判し、切り捨てる。抽象的な批判で、対案に乏しい
・世間や他人の評価を受け売り・鵜呑みにする。
・否定的な話題が多い。愚痴、悪口ばっかり
・同じことをしつこく繰り返す
・その場の気分だけの発言が多い。具体性、実行性に欠ける。言うだけ番長

・興味のない話題には、あからさまに無関心な反応
・興味の守備範囲が狭すぎる
・自分の価値観に固執。考え方に柔軟性がなく、違う価値観を受け入れられない

・自分を大きく見せる(誇張した武勇伝など)
・人をバカにする。人の生き方に口出しする
・上から目線で、細かいダメ出しをする。自分のことは棚上げ
・文句言うだけで何もしない。依頼心が強い。
・うまくいかないと人のせいにする
 

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旅の土産話

「人の旅の土産話ほど面白くないものはない」と言った人がいたけど、俺は好きだけどな、そういう話。
行った事のない土地の話、見たことのない映画、未経験の職業、そういう話を聞くことで、自分では体験できないものをいろいろと知ることができるわけだから。
でもそういうのが苦手で、知ってる話題でないと盛り上がれない人もいる。知らない事柄には興味を持とうともしない。

人の話を聞く事によって自分ができない体験や知りえない知識を得ることができる。
そのためには相手の話に耳を傾け、興味を示してみること。それができない人にはいずれ誰も何も話してくれなくなる。


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後知恵

昔ある人に、「結果から遡って物事を考えるのは良くないよ」といわれたことがある。

結果を見てあれこれ言うのは簡単だ。
結果に文句を言うことはいくらでもできる。
試合に勝てばその作戦は成功だったと言えるし、負ければその作戦は失敗だったと言えるだろう。

確かに結果を分析して反省したり次に同じ失敗をしないように考えるのは大事だが、ただ結果に対してあの時ああしとけば的なことを言うのはただの後出しジャンケンに過ぎない。

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心の共有面積

先日久しぶりに、自分が生まれてから中学を卒業するまで住んでいた場所を訪れた。

懐かしいその場所は、六畳と四畳半の二間に小さな台所の付いた木造のアパートだった。
共有面積100%の住環境。
家族三人この狭い居住空間で食事をし、布団を敷いて寝た。
もちろん子供部屋などなく、六畳間の片隅に小さな机が置いてあって、そこで宿題などをした。

高校に入って一戸建ての家に引っ越した。
一戸建ては両親(特に母)の念願で、いつか家を買う、というのが結婚する時の約束だったようである。
食事をする場所と寝る場所が別々になって、自分の部屋もできた。

しかしその頃から、家族の間に少しずつ距離が生まれ始めた。
父と母は元々仲のよい方ではなかったし、私も父とは馬が合わず、よく衝突した。
狭いアパートに住んでいた頃は嫌でも顔を突き合わせ口を利かなければならず、そうしていれば自然と仲直りもできた。

それが引っ越してから、嫌なら顔を合わせなくても済む、という環境が手に入って、食事も別々の時間にとるようになり、家族三人が揃うこともなく、会話を交わすこともほとんどなくなった。
私も難しい年頃だったし、どこの家にもあることといえばあることだ。

今思えば、狭い所で家族三人が嫌でも顔を突き合わせるっていう環境も悪くなかったかなあ、と思う。
たしかに不便だったしプライバシーもなかったけど、その分家族の関係は緊密だった。


他人との関係も似たようなものがある。同じ学校とか職場とか、同じ環境で毎日顔を合わせれば当然共通の話題も多いし、そこで馬が合えば友達になったりもするが、やがてそこを離れてしまえば、久しぶりに会っても互いの近況を報告しあうぐらいで、なかなか共通の話題で盛り上がる、というわけにもいかなくなる。

別々の場所で違う風景を見ていれば価値観や物の好みも変わってくる。ていうか変わっていく過程をお互いに見ていないのだから、久しぶりに会ってみると「この人こんなこと言うかったかなあ」と違和感を感じることもある。
興味の対象や意見が一致することも少なくなり、こうして価値観の共有面積が少しずつ少なくなっていって、少しずつ疎遠になっていく。

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好きなものを共有する

自分が良いと思ったものを誰かに薦めたい、共有したい、という気持ちは誰にでもある。
喜びを分かち合いたい、という根源的な欲求だと思う。
しかしこれがなかなか難しい。ニッチな趣味ほど、共有できる相手と出会う確率が低い。

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相手の歩幅に合わせなさい

 二十歳過ぎの多感な頃、ふと気まぐれに入った占いの館で、占い師が僕の手相を見て言ったことば。

「あなたは、自分の歩幅でスタスタと歩いていってしまう癖があるのではないでしょうか。それではいけません。相手の歩幅に合わせて歩く、ということも覚えていかないと、心豊かな人生を送れませんよ」

 その言葉が妙に心に残っていて、それからそういうことを少しは考えて生きるようになった。

 おかげで良い人と出会えたり、良好な関係を保てて人生が良くなった部分もいっぱいあったけど、反面、しんどいことも多かった。人の歩幅に合わせるというのは、時に我慢を強いられることでもある。自分の言いたいことをぐっとこらえたり、相手に合わせて自分を押し殺さなければならない場面も当然出てくるものだ。

 時折、あの言葉は所詮きれいごとなんじゃないか、と思うことも多々あった。世の中に出ていろんな人と接するようになると、自分の歩幅でスタスタ歩いている人が意外と多い。

 それどころか、人が傷つこうと損をしようと、自分が正しかろうが間違っていようが、自分の我が通らないと気が済まない人にも、随分多く出会ってきた。誰に対しても自分が優位に立たないと気が済まない、という人にも。

 そりゃそうだろう、勝つか負けるかが世の現実なら、吠えなければ潰されてしまう。一歩下がって相手を尊重するなんて悠長なことをやっていたら、あれよあれよという間に相手のいいようにされてしまうのだから。

 そういう人を見るたび、こんな風になれたら随分と気楽なんじゃないだろうか、と思った。自分のいいたいことをバンバン言って、私がいつも正しいみたいな顔をしてれば、そりゃストレスも貯まらないだろうさ。

 
 とにもかくにも、あの時の占い師の一言が、僕の人生を少しだけ変えてくれたのは間違いない。それが良かったのか悪かったのか今でもよく分からない。ひとつだけ良かったことがあるとすれば、ひとりじゃないということに気付けたということだ。自分一人で生きてるみたいな気になって突っ走っていれば、それはそれで違う人生もあったのかもしれないけど、今より良い人生だったかどうか、それは分からない。

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社交辞令かどうかを見分ける方法

私はどうも人の言葉を額面どおり受け取ってしまう癖があって、社交辞令というのが苦手だ、という話は、だいぶ前に書いたような気がする。

ここ数年間で何度か「今度飲みに行きましょう」と互いに言い合う間柄の人がいて、まあこんなものは挨拶のようなものだからと軽く受け流していたのだが、そう言えば長らくじっくりと話す機会もなくなっていたことだし、今年あたりは誘ってみようかと、「今年は久し振りに忘年会を兼ねて飲みに行きませんか。付きましては日取りを決めましょう。都合の良い日があったら教えてください」と声をかけてみたのが11月の末ごろ。
向こうも「いいですね、ぜひぜひやりましょう!スケジュールが決まったら連絡します」とすぐに返事をくれたのだが、半月以上音沙汰なし。
そろそろ今年も残り少なくなってきたので、「早くしないと今年ももう終わっちゃいますよ、来週あたりどうですか」ともう一度連絡を入れたら、「来週はちょっと…」とはぐらかされた。


ひとつだけ分かったのは、以前コメント欄でも教えて頂いたとおり、「社交辞令かどうか見分けるには、一度誘ってみること」ということが、実証されたということである。実に論理的だ。おもしろい。

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会話の効果

人と話すことで自分の頭の中が整理され、漠然としていた考えが明確になることがある。
その上、自分では発想し得なかったような言葉が相手から返ってきて、新しいアイデアに結びつくことがある。
ダイアログの効果とでもいおうか。こういう時、「ああこの人に話してみてよかった」と思う。
でもこういう風に思える人は滅多にいない。だからそういう話し相手は貴重だと思う。

逆に、自分の頭を整理する為に話をしてくる人がいる。相手は自分の頭の中にある事柄をひとしきり吐き出せれば気が済むのがこちらも分かっているので、とりあえず聞くことだけに徹する。

相手は別に私じゃなくて、生身の人間じゃなくて紙か何かに書き出すだけで十分なんじゃないかとも思う。

悩み事の相談や愚痴なんか、大抵は自ずから答えが出ている。人に話すことでそれを再確認したいか、同意してもらう事で安心したい。だからこちらが同意以外の反応を示したり、否定的なことを言うと途端に鬱陶しがられる。

とりあえず自分の話にいらぬ口を挟まずに最後まで聞いてくれる人、ふんふんと同意してくれる人なら誰でもいいのではないかと思うのだが、これが意外と少ないようである。だから聞き上手は重宝されるらしい。

<関連>
【2ch】日刊スレッドガイド : O型の聞き上手は異常

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細かすぎて伝わらない

「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」を久々に見た。いやあ面白かった。
 

話は変わるが、話が細かすぎて伝わらない人というのは実際にいるものである。
例えば職場の愚痴などを、専門用語や個人名まで持ち出して微に入り細に入り長々と話される。

挙句の果てに「どう思う?」とか聞かれるもんだから、「よく分からないけど、大変そうですね」としか言いようがない。

昔の知り合いで、見た映画のあらすじを二時間かけて話してくれる人がいた。
これも細かすぎて伝わらない。

逆に、話が抽象的過ぎてよく分からない、ということもある。
具体的な対象がないというか、雲をつかむような話でよく分からない。

長すぎても短すぎても伝わらない。料理の塩加減と同じく、この塩梅(あんばい)が難しい。
文章なんか特にそうで、長く詳しく書きすぎると要点がぼやけるし、手短に要点だけまとめると、あえて書かなかった部分に突っ込んでくる人や、書いてないことを勝手に読み取って誤読されたり、文脈を無視してひとつの単語に反応されたりする。困ったものである。

また面白おかしくしようとある部分を強調して話すと、それは過剰反応だと言う人もいる。いやこちらはわざと過剰反応してるんですけど。辛口カレーを食べさせたら”辛すぎる”と文句を言われたようなもので、こちらも困ったものである。


<参考>
"話が上手くない人"が説明すると必ず出てくる10の質問
↑いつもよく分からない話をする人に読んで頂きたい記事である。

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自己弁護と反省

人間には、大きく分けて二種類のタイプがいると思う。
何か失敗したりうまくいかないことがあった時、他人や自分以外の何かのせいにして自己弁護する人間と、ひたすら自分の非力を嘆いて反省する人間。

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与えるよりも多く奪ってしまう

僕の大好きなキリンジの"Drifter"という歌に、こんな一節がある。

みんな愛の歌に背つかれて 与えるより多く奪ってしまうのだ
              うたまっぷ 歌詞:Drifter-キリンジ

与えること、得ること。
何かを得れば得したと感じ、与えれば損したと感じてしまう。
与えるよりも多くの物を得たいと、多くの人は望むだろう。
そしていつしか与えることを忘れ、奪い合うようになる。

でも、与えることでしか感じられない幸せや喜びもあると、思う。

愛するよりも多く愛されたいと望めば、必ず不幸になる。
期待した愛情を受けられずに失望し、嘆き悲しむのだ。
自分からは何も与えず、相手に理想ばかり求めていても、
得られるものなど何もない。

与えるより多く奪ってしまう、そんなことをお互いに繰り返していたら、
結局奪い合うばかりで誰も幸せになれないんじゃないか、と思う。
 

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完璧主義とは人に求めるのではなく、自分に課すものである

takoponsの意味 - 間違いを認めて人は成長してゆくを読んでいたら、注釈欄にこんな言葉があった。

*2:でも世間には、1mmの間違いも許さない風潮というものがあって怖い。 もしかしたら、常に完璧を要求され期待されている理想の日本人像みたいなものがあるのかもしれない。

ああそうだなあ、と思う。
自分は小さなミスを重ねてヘラヘラ笑ってるくせに、人のミスには一切目をつぶらず、重箱の隅をつつくように探し出しては鬼の首を取ったように糾弾する人がいる。
そういう人間に限って、自分のミスを指摘されると素直に認められなかったり、逆上したりする。

人の間違いを指摘することは別に悪いことではないし、人に言われて初めて気づくこともある。そうすることで物事が良い方向に向かうこともある。

しかし、人に完璧を求めるのならば、同様にその厳しさを自分自身にも向けるべきなのだ。


 

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君のために変わる必要があるの?

また前回の続きになってしまう。

そういえばその女性は、彼に対してこんなことも言っていたな。

「私が散々今まで色々と言ってきたのに、あなた全然変わってないじゃないの!!」

その後やれあなたは優柔不断だの、決断力がないだの、のんびりしているだのといった文句が続く。(あれ、自分ではいわない、あなた自身が考えろっていってたんじゃなかったっけ。まあいいや。)

でもさ、君の為に自分を曲げてまで性格変える必要があるわけ?相手の好みの色に染まる必要があるわけ?って思うわけよ。
彼女が欠点だと感じていることが、ひょっとして見方を変えれば欠点ではないかもしれない。
優柔不断って裏をかえせば思慮深いってことだってあるだろうし、のんびりしてるってのも、慎重さがあるというか、せっかちで早とちりして失敗するよりはいい場合だってあるだろうし。

いったいこの子は彼氏に何を求めているのだろうか?

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彼女が望むこと、彼がしてあげられること

実は前回の喫茶店でのカップルの喧嘩の話には続きがある。
私は途中トイレで席を立ったのでその間の話の流れというのは分からないんだけれども、
私が席に戻ると、隣の席の女性はこんなことを言っていた。

「あなたは私に色々としてくれるけど、私が望んでいるのはそんなことじゃないのよ」

じゃあどうしろって言うんだ、と突っ込みたくなったのだけれど、それはさておき。
二人のやりとりはこう続いた。

「じゃあ僕にどうしろって言うんだい」
「だからそれはあなたが考えなさいよ」

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酒飲みの気持ち、下戸の気持ち

OKWave 飲まない男性の気持について教えてください。

質問の内容をかいつまんで説明すると、要するにこの相談者である女性はお酒が好き。
でも最近できた彼氏はお酒が好きじゃない。
で、デートで居酒屋とかにも行けず、「飲めない」デートに少しストレスを感じている。
ちょっと酔いがまわってる感じは楽しいので、彼氏もちょっと一杯ぐらい付き合ってくれたらいいんじゃないかと。

彼氏はどうかというと、自分が飲めないからといって彼女にも「飲むな」と強制するような人ではなく、彼女が飲むことには寛容だし、デートで食事の時には「もう一杯くらいどう?」とさえいってくれる優しい人である、と。

何も問題はないような気がするんですが。
確かに、酒の楽しさを知ってる人間が、恋人と同じ楽しさを共有できないっていう不満は分からないでもない。
でもこれって、価値観の同質化を要求しているというか、他者を尊重するっていう姿勢が欠如しているような気がする。
もっと平たくいうと、「自分と相手が同じでないと気が済まない」みたいな。

問題は相手がどのように感じているかであって、この場合彼氏が楽しんでいれば問題はないわけですよ。酒を飲む彼女を許容してるし、自分が飲めなくても酒の席を楽しめる人間っているわけだし。どうしてそこにこだわるのか。
酒を飲むという行為を共有できなくても、その楽しい時間を共有できればそれで充分じゃないかなあと思うんだけど。

これって他の事にもいえるわけで、例えば彼氏がものすごいマニアックな趣味を持っていて、彼女がそれに無理して付き合う必要があるのか、と。

例えば自分の好きな物をものすごい勢いで薦めてくる人っているじゃないですか、私もついついやってしまうんだけど(笑)、情報として提示したり、「これいいよ!」って提案することはできるんだけど、それを相手が選択するかどうかっていうのは強制はできない。

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「酒を飲めない人間は人生の半分を損している」っていう人がいる。まあ言葉のアヤなんだけど、もしそんなことを本気で言ってる人がいるとしたら、じゃあ君の人生から酒を取ったら半分しか残らなくなるのか、という話になる。

これは酒以外のことにもいえる。賭け事、スポーツ、映画、音楽etc. その楽しみを知ってる人間にとっては、知らない人が損をしているように感じられるかもしれないけど、人それぞれ人生の楽しみ方ってのは違うわけで、それをやらない人がやってる人に比べて人生の何かを損してるか、っていうことにはならないでしょう。

もちろん、全てにおいて「私は私、あなたはあなた」みたいな突き放し方をしてしまうとあまりにも味気ないし、そこからは何も生まれないと思うけど、その辺のさじ加減というか、自分と違う価値観を相手が持っていてもそれを尊重できるかどうか、って全ての人間関係において重要なことだと思う。


本題に戻って、もちろん恋人と同じ楽しみを共有したいっていう気持ちは人としてごく自然なことなんだけど、必ずしもそれがかなうとは限らないし、そうなった場合にどれだけ寛容でいられるか、一緒にいられる時間を楽しめるかっていう方が大事だと思うし、そういう意味では相談者の彼氏っていうのは大人だと思う。

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ここからは本題と少し離れるけど、世の中には二元論というか対立軸でしか物事を考えられない人っていうのがいる。
そういう考え方をするとそこから取りこぼされるものって見逃されてしまうし、一方の立場に立ってしまうともう一方の立場が受け入れられなくなる。

AとBという相反する考え方があって、その中間地点に立つというか、どちらの良さも認める、っていうような考え方があってもいいんじゃないかと。
それを優柔不断とか、白黒ハッキリしろとかいう人もいるけれど、必ずしもどちらか一方の立場を選択する必要もないし、世の中そんなに単純じゃないでしょ。

答えが出ないものは答えが見つかるまで保留しておけばいいと思うし、目の前にある分かりやすい答えに飛びついたって、それが良いとは限らないんだから。
分からないものを分からないものとして受け止める、答えの出ないものを答えの出ないものとして自分の中に持ち続けるのもひとつの強さなんじゃないかと。

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教えてもらわないとできないのか

 昔、飲食チェーン店の店長をしていた時に、ある店に赴任すると、厨房のスタッフが全員アルバイトだった。

 そこでびっくりしたのは、包丁のあまりの切れ味の悪さ。四本あってどれもろくに切れない。硬いものはおろか、パンもろくに切れない。

 「いったいいつから研いでないのか」と聞くと、誰もこの店に来てから一度も研いでないという。なぜかと聞くと、「研ぎ方を教わってないから」。
見るに見かねて自分で包丁を研ぎ始めた。幸い研ぎ石はある。ずっと研いでないので、なかなかすぐに切れ味が戻らない。暇さえあれば何度も研いだ。
「店長は包丁研ぎばかりしている」と揶揄された。包丁を投げてやろうかと思った。

 「教わってないからやらない」というのはいかがなものか。包丁の研ぎ方なんか調べればすぐに分かる。
 それとも、包丁を研ぐ、という発想がそもそもないのか。
 包丁研ぎだって調理の重要な技術のひとつだと思うのだが。


 ほかにもおかしいと思う所はいくつかあって、問いただすと「前からこのやり方でやっていたから」という。あきらかに要領の悪いやり方を「前からやっていたから」という理由だけで何の疑問も感じず、そのまま続けている。

 「こうした方が作業効率が上がる」と何か提案すると、「なぜ今更変えようとするのか」と抗議の声が上がる。今までのやり方が正しいのかどうかの検証も、変えることでやりやすくなるかどうかの思考も何もない。ただ決まったやり方を機械的にこなしているだけだ。

 飲食業の仕事というのはほとんどが肉体労働だが、体を動かす仕事だからこそ、もっと頭を使って仕事をしなければ、それは本当に機械的な作業に終わってしまう。そこには何の改善も成長もない。

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「分からない」のはどちらが悪い?

 「あなたは何を考えているか分からない」と責められたことが何度かある。
その度に思うのだ。「あなたが私のことを分からないのは、私の責任ですか?」と。

 たとえば試験問題を目にして「難しすぎる」と、問題を作った人間を責めるのか。
 人間関係においてはそういったことがしばしばおきる。
「私があなたのことを理解できないのは、理解してもらおうと努力してないあなたの責任なのですよ」といった具合に。

 ”分からない”と相手を責める前に、あなたは少しでも分かろうと努力したのですか?

 こちらとしてはそれなりに言葉を尽くし、行動で示したつもり。しかしそれが十分に伝わっていないのなら、それはとてももどかしい。

 四六時中こころの内を全てさらけ出して、何でもかんでもベラベラとしゃべり、サルでも分かるぐらいに噛み砕いて説明しなければ、人というのは理解し合えないものなのだろうか。

 理解できないからといって腹を立てる必要性があるのか、とも思う。そういう人に限って、「私の気持ちを分かってくれない」と腹を立てたりもする。
 何もかもが自分の理解の範疇という掌の内にないと気が済まないのか。

◆◆◆

 よく映画の感想で「分からない」というのがある。
 しかし、「分からない」から「面白くない」というのは違うと思う。
「分からない」のは、自分の感性がその作品に追いついてない、という場合もある。あの映画は分からない、だからあの映画はつまらない作品だ、と切り捨ててしまうにはあまりに惜しい。

 何かを伝えようとする時、「分かりやすさ」というのは大切な要素だ。しかし、考えもせず相手が分からせてくれる事を期待する、というのは思考停止であり、思考の放棄だ。「分からない」と相手を責める前に少しは考えたらどうか。


 分かりやすいものばかりを観て、分かりやすい人と分かりやすい話ばかりをしていたら、そのうち馬鹿になってしまう。

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